登山家たち

日本にも、世界を代表する登山家・クライマーが沢山います。

加藤保男

1949年3月6日、埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパール、チベット両側から登頂したのは世界初。エベレスト3シーズン(春・秋・冬)登頂も世界初。1982年12月27日、日本人初の冬期エベレスト登頂を果たした(東南稜)が、下山中に消息を絶った。

長谷川恒男

1947年、神奈川県愛甲郡愛川町半原出身。神奈川県立神奈川工業高等学校卒業。1974年3月 冬季未踏であった谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独初登頂。1977年2月16日 マッターホルン北壁 冬期単独登頂。北壁の冬期単独登頂はワルテル・ボナッティに次いで2人目。1978年3月9日 アイガー北壁 冬期単独初登頂。1979年3月4日 グランド・ジョラス北壁 冬期単独初登頂。アルプス三大北壁の冬期単独登攀の成功は世界初。1991年妻をベースキャンプまで動向させてたウルタルII峰で雪崩に巻き込まれ星野清隆と共に43歳の若さで遭難死した。

遺体はフンザ渓谷内のベースキャンプ近くに埋葬され、墓地も造営された。この雪崩により遭難した時は、妻を同行させて気の緩みがあったのか、第1キャンプを出発したのが午前8時と遅かったことで雪崩に巻き込まれる危険性が高い時間帯だった。パキスタンのフンザには、妻の昌美さんによって「ハセガワメモリアルスクール」が設立され、子供たちが学んでいる。

広島三郎

1943年、東京都生まれ。1968年に駒澤大学地理学科卒業後、神奈川県の高校教諭。1969年1月、剣岳で仲間4人と遭難事故を起こして、10日間ほど剣岳山頂でビバークして生還した。1971年にネパール・ヒマラヤのガンガプルナ(7455 m)に挑戦、1977年に高校教諭の職を辞した後、カラコルムのK2(8111m)に登攀リーダーとして登頂。カラコルムのスキルブルム峰(7360m)に隊長として登頂した後、ベースキャンプにいたところを雪崩の爆風に襲われてテントごと吹き飛ばされ、6人の仲間とともにクレバスに落ちて行方不明となりました。54歳でした。

植村直己

1941年2月12日、兵庫県出身。1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者。1978年に犬ぞり単独行としては世界で初めて北極点に到達。1984年、冬期のマッキンリー(現・デナリ)に世界で初めて単独登頂したが、下山中に消息不明になった。日本を代表する冒険家・登山家として現在でも高い知名度がある。

田部井淳子

1939年9月22日福島県田村郡三春町生まれ。小学校4年生の時に登った茶臼岳(那須)が、登山家を目指すきっかけになったという。女性として世界で初めて世界最高峰エベレスト(1977年)および七大陸最高峰への登頂(1992年)に成功したことで知られている。人生で3度も雪崩に巻き込まれており、1度目はエベレストの第2キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められたが生還、2度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流されたが生還、3度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われてテントごと吹き飛ばされたが生還した。2016年10月20日に77歳で天命を全うするまで、現役で登山を続けた。

森田勝

1937年12月19日、東京府北豊島郡(現在の荒川区)に4人兄弟の長男として生まれた。戦争中、埼玉県松伏に疎開、家族で自給自足生活に入った。小学生4年生の時に、母が死亡。中学校を卒業できないまま実家に戻り、父の下で金型工の見習いとなる。そのころブームになりつつあった登山を始めるようになる。1969年、木村憲司らとヨーロッパへ初の海外遠征に参加したが、1月25日に頂上まであと300mのところで木村憲司が転落して、左足を骨折、ヘリで救助されることになる。1972年、アルパイン・ガイド協会に入会。プロの登山家となる。1973年、第2次RCCのエベレスト遠征に参加。1978年12月18日、グランド・ジョラス北壁で休憩中にフックが外れて50メートル落下して意識を失ったが、右手・右足のみで25メートルの登攀を行い、6時間以上かけて荷物のあったテラスに戻った。その後に翌1980年の冬、森田はまだ左足にボルトが入ったままグランド・ジョラスを訪れた。

1937年12月19日、東京府北豊島郡(現在の荒川区)に4人兄弟の長男として生まれた。戦争中、埼玉県松伏に疎開、家族で自給自足生活に入った。小学生4年生の時に、母が死亡。中学校を卒業できないまま実家に戻り、父の下で金型工の見習いとなる。そのころブームになりつつあった登山を始めるようになる。1969年、木村憲司らとヨーロッパへ初の海外遠征に参加したが、1月25日に頂上まであと300mのところで木村憲司が転落して、左足を骨折、ヘリで救助されることになる。1972年、アルパイン・ガイド協会に入会。プロの登山家となる。1973年、第2次RCCのエベレスト遠征に参加。1978年12月18日、グランド・ジョラス北壁で休憩中にフックが外れて50メートル落下して意識を失ったが、右手・右足のみで25メートルの登攀を行い、6時間以上かけて荷物のあったテラスに戻った。その後に翌1980年の冬、森田はまだ左足にボルトが入ったままグランド・ジョラスを訪れて、2月24日に行方不明となった。

山田昇

山田 昇(やまだ のぼる)は、1950年2月9日に群馬県沼田市に生まれた。1965年、群馬県立沼田高等学校入学、2年時より山岳部に所属、1968年に卒業して沼田山岳会に入会した。1978年にダウラギリ(ネパールのヒマラヤ山脈)に登頂して以降、世界の高峰に次々と登頂した。

日本がバブル絶頂であった1989年2月24日に冬季マッキンリーで遭難・死亡が確認されるまで、8000メートル峰14座のうち9座に12回登頂した世界が認める実力を持った登山家だった。沼田市の生家には記念館として『山田昇ヒマラヤ資料館』が建てられている。

谷口けい

1972年7月14日、和歌山県和歌山市生まれ。千葉県我孫子市育ち。アルパインクライマー。小学校時代に冒険家植村直己の著書と出会い影響を受けたという。明治大学の二部文学部史学地理学科に入学。2015年12月21日、大雪山系黒岳(1984m 北海道上川郡上川町)の北壁を男性4人と登攀中、山頂付近でロープを外して岩陰に移動した時に滑落死した。

小西政継

1938年11月19日生まれ。千代田区立麹町中学校を卒業、活版印刷会社に入社。1957年9月、山学同志会に入会。1967年2月7日、遠藤二郎・星野隆男とともに、マッターホルン北壁の冬季登攀に成功。1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶った。

平出 和也

1979年5月25日長野県出身。1995年4月、東海大学第三高等学校に入学後に陸上部に所属して、競歩の選手として全国大会で6位入賞。高校時代から訓練のために赤岳に登るなどしていたという。1998年4月東海大学に入学して、競歩を続けるが、3年次より山岳部に入って、4年次にヒマラヤ遠征に加わる。2001年に未踏峰クーラカンリ東峰(7,381m)に初登頂を果たし、日本スポーツ賞を受賞。2008年10月のカメット峰 (7,756m/インド) 南東壁未踏ルート初登攀の功績によって、谷口けいと共に「第17回ピオレドール賞」を日本人として初受賞。2017年11月には同年の8月22日に達成したシスパーレ (7,611m/パキスタン) 北東壁未踏ルート登攀の功績によって平出の新たなパートナーでもある中島健郎と共に「第12回ピオレドールアジア賞」を受賞し、翌2018年には同功績で2度目のピオレドール賞となる「第26回ピオレドール賞」を受賞。2024年夏、中島健郎をパートナーとして、かねてから準備していたK2西壁に挑む。しかし7月27日、登攀中に標高約7500メートル付近で滑落。救助が不可能な場所であることから、30日に捜査は打ち切りとなった。