遭難事故の事例から教訓を学ぶ

登山で最も大切なことは、無理をしないことに尽きます。無理をしなければ、ほとんどの事故は起こらずに防げますが、人間は「今まで何とかなった」という成功体験から入山して遭難しています。ほとんどの遭難事故は、急激な天候変化による低体温症に陥って起こります。悪天候野の時に大切になるのは、十分な装備と水分・食料、そして良い場所に待機して悪天候をやり過ごすことです。特に暗くなる前に良い場所を探してビバークに入ることが求められます。

遭難に対する安全対策

山を歩くときに遭難事故を意識しながら歩けば、装備を充実させて、冷静に判断ができるようになります。また、引き返す、その場に待機するという基本的な遭難対策も精神的に余裕を持てば判断できるようになります。天候悪化の際は、その場で中止の判断が適切にできるかどうかが重要になります。登山スキルは、安全に登る知恵・技術を含めて総合的なものであり、成功体験だけをもとに強引に登山を進めて遭難に至るケースが沢山あります。

雨が降った時をきちんと想定して、ザックカバー、ザックの中に水が浸入しても大丈夫なように衣服をビニールで覆っておく必要もあります。

雪に埋もれる女性

リーダーの信頼性

今までの登山から「リーダーが信頼できるか(強引さがない慎重な性格か)」どうか、「パーティ全体の技量がどうであるか」も大変重要になります。リーダーに不安がある場合、一緒に登山に行かない行動を取る必要があります。特に低気圧が入る中で登山を強行すると、(一時的に擬似天候があって晴れても)遭難の危険性が一気に高くなります。低気圧が重なると、気温がぐんぐん下がり、風がどんどん強くなります。北海道では、車道で車を降りて遭難する事故も起こっています。

天気予報の多重確認
計画をきちんと確認する
登山は早朝に開始
昼過ぎに下山を開始する
地図アプリを利用する
非常時の装備・食料の保持

遭難の予防策

ゆるいアウトドアサークルの最大の遭難予防策は、難易度の高い山に大人数のパーティで登山をしないというものです。大人数で登る時には、鋸山、高尾山のようなハイキングレベルの登山にして、そこで各自の実力を見極め、かつ仲良くなった上で少人数で中級レベルの登山に挑みます。遭難に対する認識の甘い初心者が中級以上のレベルの山に登らないことが遭難予防として重要になります。

簡単に言えば、中級以上の山に登山する時は、足手まといになるグループ行動しない人、体力のない人、経験の浅い人と一緒に行動しないことです。特に遭難事故が多い北アルプスに行くときには、注意が必要になります。

疲れると判断力が鈍る

人間というのは、疲れたことによって、普段は起こさない判断ミスをすることが多くなります。例えば、普通であればミスしないところをルートミスを起こしたりします。そのため、ビバークする時には、慌てずに睡眠をとるなどして、頭をスッキリさせておく必要があります。そのための非常用の装備・食料なども携帯する必要があるでしょう。

道迷いによる遭難防止

山の中では、道迷いによる遭難防止が非常に多いことで知られています。通行止めの区間をまっすぐに行ってしまったり、”道に見える”場所を進んでしまうことで、道迷いが起こってしまいます。経験がかなり豊富な登山者であっても、道迷いを起こすことがあります。道迷いを起こした後が肝心で、引き返したり、尾根に向かって登ることが大事になります。そうすると、時間がかかり暗くなるかもしれないので、特に単独行動の場合、山の中でビバークできる装備、予備の食料(軽いものを多めに持って歩くために他の荷物を減らす必要がある)、そして十分な寒さ対策は必要になるでしょう。カロリーが高いチョコレート、マヨネーズなどを持っていって助かった例が数多くあります。

十分な装備・食料は、精神的な余力を生み出して、正常な判断をするのに役立つうえ、生存の可能性を高めることになります。道に迷ったところで、「山の中で1・2泊ぐらいしてもいい」ぐらいの気分でいれば、気持ちを落ち着かせて、尾根を探しあてることもできます。強引に下ろうとしてしまうと、そのまま沢の方に出て進むことが不可能になって、事故のもとになってしまいます。

遭難を起こした時の対応

遭難を起こした時に冷静になるためには、遭難を起こした時の準備をしておくことが大切になります。先ずは、道迷いを想定した非常食、そしてツェルト(タープ)などの確保。そして、低体温症にならないための雨具、ホッカイロの保持があります。

冬山の危険性を理解

冬山を経験したことがある人なら分かりますが、雪が深い所では、足がどんどん埋まり「とても歩ける場所ではない」のです。とんでもない深い雪のラッセルは、体力がある男性でも、50メートル進むのに1時間もかかるような状況になります。たとえ天気が良かったとしても、腰まで体が雪に埋まって、全く身動きが取れなくなるような状況に陥ることもあります。こんな状況で悪天候にでもなれば、パーティの意思疎通すら難しくなり、もはや行動不能になってしまいます。天候が悪化した雪山は、人間が行動できる場所ではないのです。

遭難事故の事例から教訓を学ぶ

八甲田山遭難事故 1902年1月

青森県の中心部に位置している八甲田山は、世界屈指の豪雪地として知られています。その青森県・八甲田山で、1902年1月に日露戦争に備えて、「青森から八戸までの輸送訓練を行う」という名目で、旧陸軍の歩兵第5連隊の雪中行軍参加者が210名が大量遭難を起こした事故です。秋田県の農村出身者を中心に岩手・秋田などから招集されていた歩兵第5連帯は、1泊2日の日程で田代温泉まで雪中行軍を行う途中で猛吹雪にあって大量遭難となりました。生存者11名のみで、199名が死亡しました。

この八甲田山遭難事故は、映画「八甲田山」(1977年)にも描かれて、話題になりました。日本史を代表する遭難事故として知られています。

木曽駒ヶ岳大量遭難事故 1913年8月

1913年8月26日に木曽駒ヶ岳に登山した小学生が大量遭難した事故。天候が悪い中で、引率した校長先生が引き返す判断をせず、頂上までの登山を強行した判断ミスが遭難の原因とされています。屋根がない状態の頂上小屋で暴風雨にさらされたことで、ほとんど何の装備も持たなかった生徒たちが低体温症などで亡くなりました。

北海道学芸大学函館分校 1962年12月

1962年12月に大雪山旭岳で、北海道学芸大学函館分校の山岳部員11人が遭難して、B班リーダー以外の10名が死亡した事故です。途中で雪洞を掘ることで夜を明かそうとしますが、雪洞の天井が崩れたことで、極寒の中で装備を失うという最悪の状況となりました。結局、B班リーダー1名のみが生存した状態で温泉街にたどり着きました。

知大学山岳部薬師岳遭難事故 1963年1月

1963年12月25日から愛知大学の山岳部が折立から薬師岳の登頂に挑みました。冬山で三八豪雪の中で大量遭難を起こしてパーティ13名全員が死亡した事故です。12月31日には、太郎小屋に到着して、同じく薬師岳山頂を目指した日本歯科大学パーティと一緒になります。その後1月2日に山小屋から軽装備で13名が全員で登頂にチャレンジしますが、三八豪雪と呼ばれた猛吹雪の中で道を見失い遭難することになります。日本歯科大学パーティは、何とか登頂後に太郎小屋に戻り、4日に下山を開始しましたが、愛知大学の13名が帰ることはできませんでした。

大館鳳鳴高校生遭難事故 1964年1月

1964年1月に青森県の岩木山に登った大館鳳鳴高校の山岳部員が遭難し、四名が死亡、1名のみが遭難から4日後に生還しました。9時頃に登山開始した5人は、11時10分に登頂できた。だが、下山途中に道を見失い遭難する。気温が2度で冷え込み、道が分からないままビバークする羽目になった。その後、1名のみが生存して救助隊に発見され、あとの4人は死亡した状態で見つかった。

西穂高岳落雷遭難事故 1967年8月

長野県の西穂高岳独標付近で高校生の登山パーティーが被雷した遭難事故。登頂後に天候が悪化して、一列になって歩いている所を落雷にあった。生徒8名が即死、13人が重軽傷、3名が行方不明(後に死亡確認)となる大惨事となった。雷の発生が予測される山に登山に行かないことが重要。

飛騨川バス転落事故 1968年8月

名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた「奥様ジャーナル」読者の家族を乗せた観光バス15台のうち2台のバスが集中豪雨の中で土石流に巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し水没、乗員・乗客107人のうち104人が死亡した。ツアー主催者は、7月27日・28日に下見を行って、前日には添乗員会議で打ち合わせも行っています。当日は、出発した後に「モーテル飛騨」で休憩時に台風7号の影響により、先が通行止めになっていることが明らかになり、ツアー目的の「乗鞍岳山頂で御来光」を果たせそうにないことから、日程を1週間後に延期することに決定されました。帰ると中、他の車の立ち往生で動けなくなった所に土石流が襲い、沢の前にいた5,6号車が飛騨川に転落して、107名が行方不明になった。

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件 1970年7月

日高山脈カムイエクウチカウシ山(現・日高郡新ひだか町静内高見)で、福岡大学ワンダーフォーゲル部会員を襲撃し、3名の死者を出しました。1970年7月12日9時に福岡ファンだーフォーゲル部の5人は、博多駅を出発して北海道に向かいました。2日後の14日に北海道上川郡新得町に到着。14時半に芽室岳へ入山していきます。25日、中間地点でカムイエクウチカウシ山 (標高1,979m)の九ノ沢カールでテントを張ったところ、ヒグマが現れました。ヒグマがいない九州から来た彼らにヒグマに対処する知識もなく、ただ見守っていましたが、そのうち荷物をあさりだしたので、追い払い荷物を取り返します。26日早朝からヒグマが現れテントを倒した後に1人が教われ、翌日27日にも2人が襲われて死亡しました。ヒグマは若い3歳の雌でした。ヒグマに出会ったらすぐに下山することが大事です。

富士山大量遭難事故 1972年3月

富士山で猛吹雪の中で起こった遭難事故です。低体温症や雪崩により18人死亡、6人が行方不明となりました。雨に対する備えがほとんどなかった登山者の体が濡れたことで、容易に低体温症に陥りました。助かった登山グループは、いずれも強行下山せずに待機をしたことで難を逃れています。雪山でも、雨をしのげるビニールがっぱ1枚あるだけで違っていたかもしれません。

大峰山高校生遭難事故 1975年

1975年夏に自分で同好会を設立したリーダーの高校生は、ほぼ初心者の同好会3人の計4人で大峰山に2泊3日の予定で入山しました。1日目の夜にほとんどの食料を食べて、2日目に落雷に見回れて道迷いを起こします。3日目から空腹、幻覚などを起こすようになっていきます。5日目に持ってきたものを全て食べ終えました。8日目に捜索を打ち切るとラジオが流れて、4人は遺書を書き残します。しかし、そこで偶然にも捜索隊がポンチョを発見して、8日ぶりに救助されることになります。救助後に無期停学、400万円もの請求がありました。

逗子開成高校八方尾根遭難事故 1980年12月

八方尾根の冬山に雪山が初心者の先生、生徒5名が入山して、全員が死亡した遭難事故。朝方に良かった天気は、登山の途中で雪が降って荒れ始めた。6名は八方池(第三ケルン)周辺でビバーク中に亡くなり、沢まで流されたとみなされました。結局、6名が発見されたのは、半年以上を経た1981年5月のことでした。

立山中高年大量遭難事故 1989年10月

1989年10月8日から10日まで、40歳代~60歳代まで男性7人女性3名の10名が立山の紅葉を見るために2泊3日の予定で山に入りました。10人のパーティのうち8人が降雪がある悪天候の中で死亡した遭難事故です。ロープウェイで2000メートルを超える山に素人が気軽に行けるようになってしまったことが遭難の原因とされました。パーティの中には、ほとんど登山経験がない人がいて、装備も全く不十分で凍傷になりました。

10月7日に滋賀県を出発したパーティは、23時頃に立山連峰の麓の駐車場に駐車して、駐車場にテントを設営して、車とテントで仮眠を取りました。早朝5時30分に出発して、午後8時45分頃には、標高3033mの雄山に向かって出発しました。正午頃に雄山の山頂に到着する頃には、吹雪に近い状況に見舞われていました。この時点で引き返せば良かったのですが、牽引するリーダーがおらず、意思決定が曖昧のままに登山を続行してしまいました。疲労困憊するメンバーが抱えられて歩き、女性2人も遅れ始めて、パーティが2手に分かれることになっていました。気温がマイナス10度に達するような極寒の状況で、男性が意識を失い始めていました。比較的元気だった40代男性が内倉之助山荘に球状要請に向かいますが、途中で道に迷って剣御前小屋に進路を変更した所で力尽きて倒れこみます。結局、2人は救助されましたが、他の8人が死亡するという大惨事となりました。

吾妻連峰雪山遭難事故 1994年2月

1994年2月11日からの3連休で、登山仲間の7名(男性2名、女性5名)が吾妻連峰の雪山を楽しもうとして遭難、5名が死亡した事故です。2月11日に東京駅から出発したパーティ7名は、新幹線で福島駅に到着して、福島駅からマイクロバスで吾妻高湯スキー場に行きます。この際に新幹線が満席で30分遅れとなったり、マイクロバスを待つのに30分ほど待ったり、マイクロバスで強引に登山口まで行くのが難しくてスキー場のリフトを使うハメになったり、さらにリフトが4本中2本しか稼動しておらずに歩くハメになるなど、最初から全く順調といえませんでした。その日に設備の整った「慶応吾妻山荘」に宿泊せず、あえて「家形山避難小屋」を選んで宿泊、ここに到着したのが16時30分と遅れていましたが、22時30分まで宴会を行ったことで、さらに疲労が蓄積された可能性があります。そして翌日の朝に擬似好天気で晴れていたので出発するも、途中で天気が悪くなって、予定より2時間ほど遅れて白浜尾根に到着。霧の平の目印を発見できずに雪の中を迷うハメになり、極寒の中をビバークすることになりました。さらに翌13日には、出勤のプレッシャーから朝7時から下山を強行したが、その途中で7名のパーティのうち5名が低体温症で死亡しました。リーダーが登山暦30年のベテランで山岳ガイドの資格があり、同じルートの経験があったにも関わらず、遭難を防げませんでした。登山の計画自体はそれほど問題あるものではありませんでしたが、最も問題だったのは、悪天候が予想される日に出発してしまったことでした。さらに悪天候の時に使えるツェルト、ショベル、ラジオを誰も携帯していなかったことも問題でした。特にショベルがなければ、雪濠を掘ることができません。また、グループ宴会にこだわり、避難小屋に宿泊して休息が十分に取れない上に、情報も得られなかったことが遭難に繋がっています。男性2人、女性5人というパーティの男女比にも問題があり、遭難の時に体力のある男性2人で女性5人を支えるには無理がありました。

エベレスト大量遭難 1996年5月

1996年5月に起きたエベレスト登山史上有数の遭難事故。1990年代に商業登山が一般化して、エベレストにアマチュア登山家が登山することが増えていきました。その中で、1人65,000ドルでエベレスト営業公募隊に参加していた日本人女性を含む8人が亡くなりました。14時に登頂する予定でしたが、それが遅れても下山を開始しなかったために、夜間の天候悪化に見舞われたことで帰還できなくなったことが遭難原因とされています。

北アルプス鳴沢岳遭難 2009年4月

北アルプス後立山連峰の鳴沢岳山頂付近にて山岳部コーチ・部員が遭難・死亡した事故。冬の黒部を日本で最も熟知していたとされるコーチ役の伊藤達夫氏(信大山岳部出身、京都府立大の助教)と学生2名が死亡。遭難の直接的な原因は、指導者としての伊藤氏の暴走にあったとされています。伊藤氏は、2008年GWにも遭難未遂事故を起こしていましたが、その失敗体験すら活かされることがありませんでした。どんなに経験豊富であろうと、猛吹雪にあえば人は無力です。また、車内で仮眠を取るなど、体調もとても万全とは言えない強行日程を組んでいて、伊藤氏の強引さに学生2人が巻き込まれた亡くなってしまいました。無責任なリーダーの下での登山がいかに危険であるかを知らしめた遭難事故でした。

トムラウシ山遭難事故 2009年7月

北海道トムラウシ山で発生した中高年による大量遭難事故。この北海道 トムラウシ山 では、2002年7月の台風6号で2名が低体温症により死亡する事故が起こっています。この事故は、登山ガイドが3名付いていたにも関わらず起こった事故でした。台風がきているにも関わらず、ツアーガイドはツアー続行したことで雨に濡れた体が冷え切り、行動不能に陥りました。また、ツアーガイドが遭難通報も遅くなったことで被害が拡大しました。

山岳遭難

乗鞍岳クマ襲撃事件 2009年9月

乗鞍岳のバス停付近で、10名の観光客がツキノワグマに襲われて重軽傷を負った事件。当時、秋シーズンで1000人ほどの観光客が畳平バスターミナル(標高2702 m)にいました。ツキノワグマが突如としてカメラで風景を撮影していた68歳の男性の所に走ってきて襲いかかり、その後も観光客・登山客を襲いました。そこは「日本で最も高いバスターミナル」であり、救急車もすぐに到着できるような場所ではなく救護が遅れましたが、不幸中の幸いで死者はでませんでした。熊は、バスターミナル館内に侵入しましたが、職員の消火器噴射に驚き、隣部屋に逃げ込んだところをシャッターを下げて閉じ込められました。その後、駆けつけた猟友会のメンバーに射殺されました。

片山右京さん富士山遭難事故 2009年12月

2009年12月17日、南極大陸のヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、自身が経営する片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に登攀した。夜中に強風の中で、仲間2人が入ってるテントが吹き飛ばされて、2人とも死亡した。片山本人は翌18日に自力で下山する途中に保護された。

秩父多重遭難事故 2010年7月

2010年7月25日に大雨・洪水・雷の警報が出ている中、秩父市滝川ぶどう沢付近で、東京都勤労者山岳連盟「沢ネットワーク」パーティ8人のうち55歳の女性1人が滝つぼに転落しました。すぐにメンバーが救助要請を行って、埼玉県消防防災ヘリコプター「あらかわ1」(13人乗りの中型機)が出動。現場でヘリが上空約30メートルでホバリングを行って隊員2名をロープで地上に降ろしますが、その時にロープの長さが足りずにヘリコプターを狭いV字谷の中でギリギリまで降下させた時、ヘリが何かに接触して墜落しました。救助隊員として搭乗していた隊員5名が全員死亡しました。その後、7月31日に日本テレビ取材スタッフ2名が山岳ガイドを伴って現場に入ろうとしますが、登山ガイドの水野隆信さんは、2人のTシャツ姿を見て「大雨の中であまりの軽装すぎて危険」として一緒に引き返しました。しかし、技量・知識・経験が少ない上に装備まで持たない取材スタッフは、ガイドと別れた後に独自で入山を強行、増水していた川に流されて2名とも死亡しました。現場は非常に厳しい山岳地帯であり、登山経験者は緻密な計画と十分すぎる装備で来る場所ということです。

白馬岳大量遭難事故 2012年5月

2012年 5月4日に白馬岳(北アルプスの飛騨山脈)を登山中の北九州市から来た医師6人(北九州市の63歳から78歳)が低体温症で死亡した山岳遭難事故。朝は晴れていましたが、午後から天気が大きく崩れて猛吹雪となり、ちょうど隠れる場所がないところにさしかかって、進むことも戻ることも難しくなりました。ツェルトをバックから出した形跡はありますが、それを展開する前に倒れてしまったと推測されています。現場の天候だけでなく、出発前に天候をきちんと確認していれば、大荒れの猛吹雪も予想できる日でした。アルプス経験者もいるなどベテラン揃い、かつ低体温症にも知識がある医師たちでしたが、急激な気温の変化に対処することができず、全員死亡するという結果になりました。教訓としては、上着などは簡単に取り出せるような場所に収納しておくのが良いでしょう。

尾瀬ヶ原の落雷事故 2012年5月

2012年5月28日に本州全体が低気圧で覆われた不安定な天気となり、群馬に雷注意報が出されていました。10時半頃に尾瀬ヶ原の龍宮小屋から南に50mほどの場所で落雷が発生、男性1名が雷に直撃を受けて意識不明、一緒にいた女性1名が軽症で、女性が小屋に駆け込んだことで従業員が199番通報しましたが、心配停止の男性は死亡が確認されました。

檜尾岳 韓国人ツアー客遭難事故2013年7月

2013年7月29日、長野県駒ヶ根市の中央アルプス檜尾岳(2728m)付近において、20人のパーティが悪天候で、4人が死亡しました。パーティは、7月29日午前6時頃に木曽殿山荘を出発して、檜尾岳の手前で70歳代の男性が身動きが取れなくなり、その後に2人が低体温症、1人が滑落で死亡しました。日本語が話せる60代のリーダー格の男性が釜山の旅行会社に山小屋の予約などを依頼して寄せ集めたツアー団体で、全く統率が取れていなかったということです。

学習院大学 阿弥陀岳遭難事故 2015年2月

学習院大学山岳部の5人は、2月5日から11日までの4泊5日の予定で行者小屋から赤岳西壁主稜、横岳西壁石尊稜、阿弥陀岳北稜を各 1 日で登る計画を立てました。天候が悪化する予報から、午前中で帰れると考えた阿弥陀岳北稜に予定を変更して、2月8日に天候が悪化する中で阿弥陀岳北稜から登山を強行していきます。午前中で帰れる予定だったことから、装備は最低限のものでした。阿弥陀岳に登頂した時には、天候が悪化して視界がない状態でした。この日、他大学山岳部2チームと地元ガイドグループは、天候悪化を読んで途中で撤退を決めています。

阿弥陀岳登頂後には、文三郎尾根のコースを予定していましたが、風が強く尾根沿いが危険なので、中岳沢から行者小屋に下るコースに変更をします。しかし、5人が道を見失って逆方向の立場川本谷へ下ってしまいます。その時には落ち着いて南稜へ登り返し、阿弥陀岳北稜から南稜へ継続するルートを再設定しています。南稜へ登り返す途中の2100m地点でツェルトを張ってビバークします。この時、メンバーの携帯電話が通じたにも関わらず、救助要請を行いませんでした。メンバーには、現在地を把握していたことから「遭難した」という自覚がなかったようです。夕食に非常食のレーションを食べて、リーダーはほとんど寝ないで雪かきをしていたということです。また、必要最低限の装備しか持ってきていなかったので、朝食はありませんでした。

翌日に南稜を登り返しに入りますが、午後になると風が強く天候が悪化していきます。P3地点では、土屋さんは疲れ果てて30分遅れるほどでした。途中で土山さんの靴が脱げかけたので、リーダー吉田くん(男・4年)は、3人を先行させる指示を出しました。その後、リーダー吉田くん(男・4年)・土山さん(女・1年)がアンザイレンしたまま日没前に阿弥陀岳に登頂した後、滑落して2人とも死亡しました。登山計画書も良く描けていて、さらに安全対策としての装備も問題なかったとされていますが、遭難は防げませんでした。この遭難事故の直接的な原因は、経験が浅い土山さんの実力を全く考慮に入れず、当日の2つ玉低気圧が接近した悪天候の中を無理して登山を強行しまったことでしょう。実際、他の山岳部は登山を途中で中止しています。更に、既に「遭難している」と見られた場面で救助を呼ばなかったことも問題があります。リーダーがインド・ヒマラヤ経験もあることから、おごりがあった可能性が指摘されています。早めに救助を呼んでいれば、最悪の事故が防げた可能性がありました。

谷口けいさん滑落事故 2015年12月

2015年12月21日、世界的な登山家として知られる谷口けいさんは、大雪山系黒岳(北海道上川町)で登頂後に用を足すと言ってパーティを離れた後に行方が分からなくなりました。享年43。

日高・幌尻岳 遭難事故 2017年8月

多くの登山事故は、道迷い、遭難、転倒、滑落などで起こっていますが、幌尻岳の遭難事故は、増水した川を無理に渡渉しようとしたことでパーティ8名のうち3名が死亡するという大惨事となりました。幌尻岳は、日本百名山にも選ばれる人気の山ですが、渡渉箇所が多いことから「上級者向けの山」とされています。この事故が起こった「額平川」は、普段であれば膝ぐらいの高さで問題なく渡渉できますが、雨が降った時に短時間で水位が高くなることで知られています。ここでは、注意喚起にも関わらず、毎年のように水難事故が起こっています。

2017年8月、60~70代のパーティ8名は、幌尻岳に登頂した後で幌尻岳山荘に宿泊していましたが、深夜から雨が強くなり、河川が増水していることが予想されました。その中で12mmも雨が降る中で下山を強行、地形から水が集まりやすい「額平川」の渡渉は、幅10メートルほどもある川となっており、そこを無理に渡渉しようとして、パーティの数名が流される事故が起こりました。

晴れていれば、靴が濡れる程度で渡渉できる場所でも、雨天で川が増水している時には、「渡渉できない」と判断することも大切になります。いかに登山の経験が豊富である人でも、川の威力を熟知していないことも多いので、その辺りは注意が必要です。基本的には、腰の高さ以上になると「人が立っていること」すら困難です。この事故では、ロープにカラビナを付けることで渡渉の安全確保をしようとしましたが、渡渉の途中でザックが浮いて溺れることになってしまいました。

このパーティのリーダーは、幅10メートルの濁流を見て「さすがに渡渉は無理ではないか」と考えて話し合っていましたが、実力を過信する1人が先に渡渉してロープを張って、後方の人を巻き込むことになりました。このパーティは、あくまで友人関係にあって、リーダーの権限も曖昧なものでした。その結果、強引に突き進む人に足を引っ張られて3名が遭難死する事故に繋がりました。

阿弥陀岳 滑落事故 2018年

2018年3月26日に阿弥陀岳(2805m 八ケ岳)に登山していた男女7人のパーティが滑落して、うち3名が死亡、4名が重軽傷を負った事故。山頂から300メートルほど下の南稜付近で全員が滑落する事故になってしまいました。ザイルは、正しく利用すれば安全性を高めますが、ただ繋いだだけでは危険を増す結果になってしまいます。

剣岳 19歳の単独女性滑落事故 2019年9月

2019年9月8日に単独で剣岳(2650m・富山県・北アルプス)夕方頃に立山連峰に向かって行方不明になり、兄とされる人物がツィッターで「立山連峰に向かった妹が行方不明です」と投稿しました。妹は、剣岳に単独で登山に行き、家族に午後5時過ぎに「登頂できた」とメッセージを送った後に行方不明になりました。そこで滑落事故を起こして亡くなっていました。剣岳は、日本100名山の中でも特に『一般登山者が登る山としては難易度が高い山』として知られており、岩場などで極めて危険な場所が複数あることで知られています。十分に装備を持つプロの登山家ですら滑落・死亡事故を起こしています。2019年9月12日頃に登山道の150メートル岩場下で発見された時、女性は軽装だったということです。女性は、登頂後に暗くなり、ヘッドライトがないまま進路を間違えたことで滑落死したと見られています。日本では、Youtubeなどで難易度が高い山を見る人が増えていて、難易度の高いジャンダルム(3169m)に登山する人が増えて、多数の滑落死亡者を出しています。命がけの難易度が高い山を登るだけが登山ではありませんし、命をかけた無謀な行動をしなくても成長できることは他に沢山あります。山で暗くなった場合には、「行動をしないこと」が最善の選択となります。

ニコ生主 富士山滑落事故 2019年

2019年10月28日 14時40分頃に登山の経験が少ないニコ生主(東京・新宿区の司法試験浪人47歳男性)は、冬季の富士登山の頂上付近の様子をライブ配信している最中に「あ、滑る」と発言しながら滑落、7合目付近でそれらしき遺体が発見されました。富士山は、9月上旬には閉山しており、冬季の富士山は、アルプス・ヒマラヤ訓練の場になるなど、風が吹き付ける過酷な環境で知られています。冬季の富士山は、冬の雪山の完全装備で挑む登山のプロが登攀しても危険が高い難易度が非常に高い山になります。「誰かに承認されたい」という寂しさが富士山に駆り立てたのかもしれません。

海外で遭難事故の事例

スコット隊 南極遭難事故1912年

ロバート・スコット率いる南極探検隊は、南極点に到達しましたが、既にアムンセン隊に先を越されていて、さらに帰路に猛吹雪にあって食料・燃料ともに尽きて身動きがとれなくなり、テントの中で残った3名が死亡して全滅しました。アムンセン隊が犬ソリで移動したのに対して、スコット隊が馬・人力で移動した結果、アンムンセン隊に先を越された上に遭難・全滅という結果になりました。また、もともと4名の予定が隊員が5名に増員されたことで負担が大きくなったとされています。

アイガー北壁遭難事故 1936年

1936年ベルリンオリンピック直前の夏、ナチスは国威発揚のため「アイガー北壁(3970m)に登頂したものにオリンピックの金メダルを授与する」と発表しました。7月18日、トニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサーは登攀を開始。彼らのすぐ後をオーストリア隊のヴィリー・アンゲラーとエディ・ライナーが追いかけました。ヴィリーが落石で動けなくなり、3100メートル地点で4人ともにビバーク。7月19日に3350メートルに達するが、ヴィリーは動けなくなり、2回目のビバークとなって登攀は中止されてウィリーをザイルで降ろした。しかし、7月20日に天候が急激に悪化してビバーク。7月21日、滑落して3人の中を失い、唯一生き残ったトニー・クルツは、救助される寸前のところでザイルが足りず、宙吊りとなったまま7月22日に死亡した。

ミニヤコンカ滑落事故 1981年

1981年5月10日、に北海道産額連盟の25人は、ミニヤコンカ(7556m)北東稜からの初登頂に挑みました。 阿部幹雄さん(当時23歳)は、そのメンバー1人の写真係として参加しました。第一次登頂隊の12人は、体調を崩した2人に奈良憲司副隊長が付き添って、残り8人が快晴無風という好条件の中で順調に登っていきました。しかし、頂上まであと100メートルというところで、隊員の1人が滑落しました。その1人が滑落したことで、登山隊は登頂を断念して下山に入ります。そして、下山中にザイルで繋がれた7人が 阿部幹雄さんの目の前で滑落していきました。写真を撮影するためにザイルを連結していなかったために悲劇を免れた阿部幹雄さんは、1人下山しますが、クレバスに落ちてしまいます。それを奈良憲司副隊長が何とか救出して、4人が生還を果たします。阿部幹雄さんは、現在も写真家・ビデオジャーナリストとして活躍されています。

マッキンリー 植村直己さん遭難事故 1984年

1984年冬に米アラスカの北米最高峰、マッキンリー(6194m)で著名探検家の植村直己さん(遭難当時43歳)がマッキンリー冬季の初登頂に成功した後に失踪しました。明治大学OBらの懸命な捜索活動でも見つける事ができず、今でも行方不明のままとなっています。最後の無線では、登頂後に「ルートが良く分かりませんでビバークしました」と、下山方向を見失った可能性があることが分かっています。

梅里雪山 日中合同登山隊遭難事故 1994年

1991年1月4日、日中合同学術登山隊17名(日本側11名、中国6名)が登頂を目前に控えたキャンプ地で雪崩の直撃を受けて全滅した遭難事故。登山隊は前年の1991年12月始めにカワカブの麓にベースキャンプを設置、17名の隊員が標高5,100m付近に設置された第3キャンプに集合ます。1月1日から降雪が始まり、1月3日には積雪量は1mを超え、現地時間1月3日22時の無線交信を最後に、第3キャンプとの連絡が途絶えました。

エベレスト大量遭難 1996年

1996年5月10日に起きた嵐の影響で、8人の登山家が死亡したエベレスト登山史上有数の遭難事故の一つで、映画化もされたことから、世界的にも有名な遭難事故となっています。

万里の長城遭難事故 2012年

2012年11月3日、中国河北省の万里の長城に大雪ああった中で、ツアーで来ていた日本人5名のうち3名が低体温症で死亡した遭難事故。このツアーを主催した「アミューズトラベル」は、入社1年目の新入社員に企画から任せて、ほぼ全てを現地の定型会社のガイド任せにした結果の事故でした。同社は、2012年12月19日付けで旅行業取り消し処分を受けました。

相馬剛さんマッターホルン滑落事故 2014年7月

2014年7月23日に単独でマッターホルンに登る途中、稜線上から約800m滑落して行方不明となり、遺体が発見されたのは、事故から4年後のことでした。元海上保安庁の職員で、日本山岳耐久レースなどを制するほどの実力を持ち合わせたプロのトレイルランナーでした。家族(妻、10歳、8歳の子供)をマッターホルンの麓のツェルマットに残したままでした。

栗城史多さんエベレスト遭難 2018年5月

栗城さんは、初の海外でマッキンリー(北米最高峰:標高6,194m)に挑んで初登頂を果たしました。その後に世界の著名な山を次々と制覇。インターネット中継を行うことで2007年頃から有名になっていきました。登山経験がほとんどない状況での『成功体験』栗城さんを無謀な挑戦に駆り立てました。「冒険の共有」をテーマに数多くの講演活動などを行っていましたが、南西壁ルートで滑落、死亡しました。